大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和56年(オ)1154号 判決 1983年2月24日

上告人

山川梅子

右訴訟代理人

小林紀一郎

被上告人

甲野一郎

被上告人

甲野はる

右両名訴訟代理人

宮本清司

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人小林紀一郎の上告理由について

原審の認定した事実の要旨は、(1)被上告人ら夫婦の三男甲野太郎(当時三七歳)は、昭和五三年六月一五日午前一一時ごろ上告人方居宅前路上で、突然上告人に襲いかかり約四〇分間にわたつて殴る蹴るの暴行を加え、上告人に対し頸部損傷、上顎門歯骨折、左眼狭窄等の傷害を負わせた、(2) 太郎は、その場で警察官に傷害の現行犯として逮捕され、その後精神障害者として入院の措置を受けたが、右傷害事件当時心神喪失の状況にあつた旨の診断を受けている、(3) 太郎は、配偶者はなく、両親の被上告人及び弟と同居しているが、昭和五二年末ごろまでフォークリフトの運転手をしていて特異の行動をとることはなく、翌五三年一月以降は失業中で日雇をしていたが、同年二月ころから人の後を追いかけたり、殺してやる、火をつけてやると大声でわめいたり常軌を逸した行動をとり、付近住民に不安感を与えるようになつた、しかし、本件傷害事件が発生するまで同人が他人に暴行を加えたことはなく、その行動にさし迫つた危険があつたわけではない、(4) 被上告人一郎は、右事件当時七六歳で視力損失による一級の身体障害者であり、被上告人はるは、六五歳で日雇をしているところ、被上告人らは、太郎が成人した後においては同人を監督していたことは未だかつてなかつたが、食事のこと等で同人から乱暴されたりして、本件事件の発生前(昭和五三年五月ごろ)に娘らと共に警察や保健所に太郎の処置について相談に行つたりしたもので、被上告人らが精神衛生法上の保護義務者になるべくしてこれを避けて選任を免れたものともいえない、というのであるところ、右事実の認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして肯定することができる。右事実関係のもとにおいては、被上告人らに対し民法七一四条の法定の監督義務者又はこれに準ずべき者として同条所定の責任を問うことはできないとした原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。この点に関する論旨は採用することができず、所論中判断遺脱をいう点は、原審において主張されていない事由に関するものであるから採用の限りでない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(団藤重光 藤﨑萬里 中村治朗 谷口正孝 和田誠一)

上告代理人小林紀一郎の上告理由

一、被害の実情

上告人山川梅子は、今や廃人同様である。昭和五三年六月一五日の本事件発生後三年を経過しているが、突然暴漢に襲われ、四〇分もの間、殴る蹴るの暴行を加えられたショックは、今なお消え去ることがないのである。恐怖感による幻覚はとくに深夜にひどく、このため常に情緒不安定な精神状態にあり、些細なことにも激高し、時には錯乱する。又、睡眠薬、精神安定剤を常に服用しているため、家庭生活は殆んどなし得ず、夫婦生活もできない状況にある。

上告人のこうした状況のため、平和な家庭は完全に破壊され、夫及び三人の子供達は塗炭の苦しみにあえいでいるのである。

不法行為制度は、被害者を救済し、損害を公平に分担するとの理念に基づいている筈である。原判決は、不法行為によつて損害を蒙つた被害者を実質的に法の埓外に置くというに等しく、一精神障害者のために一瞬にして幸せな家庭を破壊され、家族全員を泥沼に陥入れた被害者家族の呻吟に目をつぶる、血も涙もない判決である。

又、最近、精神障害者の犯罪があとを断たないが、原判決はかかる無法を放置し、犯罪を奨励するに等しく、かくては、自力救済を奨励するのと同じである。現に、訴外太郎は昭和五五年八月三〇日退院し、上告人の住居附近をのうのうと闊歩しているのである。

かかる判決は著しく正義に反する。

二、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある。

原判決は、その理由第三項1で「太郎は、昭和五三年二月頃から人の後を追いかけたり、殺してやる、火をつけてやると大声でわめいたり常軌を逸した行動をとり、付近住民に不安感を与えるようになつた」と認定し、又、同2項前段で「控訴人一郎は、食事のこと等で太郎から乱暴されたり、本事件発生前(昭和五三年五月頃)に娘山本幸子らと共に警察や保健所に太郎の処置について相談に行つたりした」と認定し、更に、同項2後段で「控訴人らは、太郎の最も身近な扶養義務者であり、現に太郎の異常な行動に配慮していた者である」と認定しながら、同項2後段で続けて「太郎の行動にさし迫つた危険があつた訳ではない」と判示している。

しかしながら、同年二月頃から太郎が常軌を逸した行動をとり、付近住民に不安感を与えるようになつた許りか、両親である被上告人夫婦にも乱暴を加えるようになつたからこそ、換言すれば、太郎の行動に異常を認め、危険がさし迫つたからこそ、被上告人らは娘幸子と相談して、警察や保健所に太郎の処置について相談に行つた、と見るのが、通常の見方であり、経験則にも合致しているのである。

原判決は、この点事実を誤認し、その理由にそごを来たしており、しかも、右事実は監督義務の違反を認定する場合の重大なる事実であり、その誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかなのである。

三、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反がある。

(一) 原判決は、「民法七一四条二項は、もともと法律上ないし契約上で監督義務を負う者を予定しているが、右義務者でなくても社会的にそれと同視しうるような者にも事実上監督する者として、右条項を適用するのが相当である」としながら、被上告人らは「法律上の監督義務者と同視しうる者とはいえない」として、七一四条二項の適用を排除している。

しかしながら、被上告人らは、太郎の実父、実母で、最近の扶養義務者であり、現に太郎の異常な行動に配慮していた者である許りか、同居して食事まで一緒にしていたのであるから、「社会的に代理監督者と同視しうる者」として、右条項を適用するのが当然であり、この点原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈適用の誤りがある。

(二) 又、民法七一四条二項の代理監督者とは、「法律上ないし契約上で監督義務を負う者を予定している」ことは言うまでもないが、その場合の法律上というのも「条理」を含み、又、契約上というのも「慣習その他の事情」を含む広い意味に解せられていることは、損害の公平な分担、被害者の救済という観点からみて、当然のことなのである。

以上の通り、民法七一四条二項は、契約上で監督義務を負う者(たとえば、法定義務者から留守番を頼まれた者)をも含むと解せられているのであるが、これとの均衡上、太郎と同居していて、実父母である被上告人らがこの責任を免れることになるのは、なんとしてもおかしいのである。

この点、原判決は法令解釈適用の誤りを犯しているのである。

(三) 更に、このことは旧民法、精神病院者監護法との比較によつて明確になる。

旧民法においては、子は戸主の戸主権に服し、更に、親権に服した。しかも、子は成年に達しても、独立の生計を立てない限り、親権に服したのである(旧民法八七七条一項)。

即ち、本件は旧民法下においてなら、問題なく七一四条が適用されて肯定されていたのである。

又、現行の精神衛生法の旧法である精神病者監護法(明治三三年法律第三八号)第一条によれば、精神病者はその後見人、配偶者、四親等内の親族又は戸主に於て之を監護する義務を負う、とされていたのであり、これによつても、本件は肯定的に解され、上告人は救済されていたのである。

旧法時代におけるよりも、新法になつてからの方が、被害者の保護に欠けることになる筈はなく、原判決はやはり法令解釈、適用の誤りを犯しているのである。

(四) 原判決は、前述の如く「控訴人らを法律上の監督義務者と同視しうる者とはいえない」として、被上告人らが事実上の監督者であることを否定しているが、その理由としてあげているのは、「太郎の異常行動の監督が控訴人らに容易であつたとはいえ」ないからであるとしているのである。

しかしながら、監督が容易であつたかどうかは、義務違反即ち過失の問題であり、社会的に監督者と同視しうるかどうかの問題とは異なるのであつて、この点原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな重要事項について理由そごの違法があるものである。

(五) 民法七一四条の規定は、沿革的には、家長が家族団体の統率者として家族員の行為に責任を負うというゲルマン法の原則から出発し、家族共同体における家長の責任に由来しているが、今日においても、それは家族の特殊性にその根拠を求めることができるのである。

又、同条は民法七〇九条の一般の不法行為とは異なり、他人の行為について責任を認めるという特殊の不法行為であり、特殊の成立要件を定めているのである。

そして、その解釈、運用においては、監督者の過失から遠い、かつ、間接の原因であつてよく、責任無能力者が違法行為をすること自体についての過失ではなく、責任無能力者の監督を怠つたという一般的な過失で足りるものとされ、又、監督者の過失の挙証責任を転換し、かつ、判例において容易にその免責を認めないから、実質的に無過失責任主義が、判例法上確立されているのである。

これは、損害を公平に分配し、被害者の救済を第一義に考える不法行為制度の理想から当然に帰結されるところであるが、原判決の判示はかかる潮流にも逆行し、民法七一四条の解釈・適用を誤まつた違法許りでなく、判例法にも違反しているのである。

四、原判決は、この種事件の先例である判決と相反する判断をしている。

即ち、原判決は「控訴人らが精神衛生法上の保護義務者になるべくして、これを避けて免れたものともいえないから、控訴人らを法律上の監督義務者と同視しうる者とはいえない」と判示している。

しかしながら、監督義務者を規定した法令の存しない場合には、条理に基づいて監督すべき適用の地位にある者が監督義務者であり、禁治産の宣告を受けない心神喪失者については、配偶者又は最近親者が監督義務者である、とするのが確定した判例であり(昭和六年一二月九日台高院上判、昭和六年上民二九四号)、法定の監督義務者の存しない場合には、いずれも条理に基づき、最近親者を監督義務者としているのである(大判昭和八年二月二四日民五判、昭和七年(オ)三一〇一号)。

従つて、本件の場合においても条理に基づいて、最近親者たる被上告人らが監督義務者になるのであり、原判決は右判例に牴触する違法があるのである。

五、原判決は、判決に影響を及ぼすことが明らかな重要な事項について、判断を遺脱した違法がある。

近時、最高裁判所は、「未成年者が責任能力を有する場合であつても、監督義務者の義務違反と当該未成年者の不法行為によつて生じた結果との間に相当因果関係を認めうるときは、監督義務者につき民法七〇九条に基づく不法行為が成立するものと解するのが相当であつて、民法七一四条の規定が右解釈の妨げとなるものではない」と判示している(昭和四九年三月二二日第二小法廷判決)。

右判決に照した場合、原判決には民法七〇九条の責任について判断していない違法があるものである。

即ち、原判決の認定事実によつても、被上告人らは「太郎の最も身近な扶養義務者であり、現に太郎の異常な行動に配慮していた者」であり、右太郎の「実父」・「実母」であり、しかも、太郎と「同居」して食事まで一緒にしていたのであるから、被上告人らは右太郎を事実上監督する義務ある者というべきである。

次に、被上告人らは、太郎が「同年二月頃から、常軌を逸した行動をとり、付近住民に不安感を与えるようになり」、しかも、「食事のこと等で太郎から乱暴されたり、本件事件発生前に娘山本幸子らと共に警察や保健所に太郎の処置について相談に行き」ながら、監督者として同人を病院その他の施設に収容する等適切な処置を取ることは可能であつたにもかかわらず(事実、本件事件後、訴外甲を有馬病院に入院措置している)、それ以上適切な措置をとることなく同人を漫然と放置したために、本件傷害事件が発生したという、監督義務の懈怠がある。

更に、被上告人らが右監督義務を怠らなかつたら、本件傷害事件は発生しなかつたであろうと考えるのが通常と認められるのであるから、相当因果関係が肯定できるのである。

従つて、本件は民法七〇九条によつても、その責任を問いうるものであるところ、原判決はこの点につき、判断をしていない違法があるものである。

六、以上いずれの点よりするも、原判決は違法であり、破棄されるべきものである。

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